「俺のつがいになる覚悟はできてんの?」
海辺のビストロでシェフをする赤尾の店に入ってきたびしょ濡れの客。その青年・久白はある理由からビストロで働き始めるが、身を潜めている節があり得体が知れない。
ある日、男を刺激する淫靡な香りを放ち苦しむ久白を介抱しようとすると、彼は「発情期だから近づくな。後戻りできなくなる」と言う。赤尾は、厄介ごとはごめんだと思いつつも久白に強烈な劣情を覚えて!?
狩る者、狩られる者、護る者、媚惑の躰を巡り運命が交叉する――。
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登場人物紹介
- 久白眞人(くしろまさと)
赤尾の店にやってきた謎の青年。店で働き始めるが、身を潜めている節があり――?
- 赤尾啓司(あかおけいじ)
海にほど近い国道沿いにあるビストロ「傳」のオーナーシェフ。
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プロローグ
青白い月の光が、夜に降り注いでいた。
美しく、幻想的ではあるが、誰もが心惹かれるわけではない。身を隠している者にとって、それは危険を大きくするものでしかなかった。頼むから雲の向こうに隠れていてくれと、恨めしく願うだけだ。
森の中は静まり返っていて、時折、鳥や虫の声が聞こえてくる。息を殺し、気配を殺し、自分を捜す者たちが今どこにいるのか、神経を張り巡らせた。心音すら、己の居場所を相手に知らせてしまうように思えてならない。
風が、木々を軽く撫でた。
その時、静寂を?き回す声が聞こえてくる。
「早く捜せ! 絶対に逃がすんじゃねぇぞ!」
男の怒号。青年は、身をより小さく縮こまらせて草むらの中に隠れた。
鼓動。
速く打ちつける。
声と足音は近づいてきて、少し先で止まった。
「せっかくの上玉だってのに、へましやがって!」
「す、すんません! いきなり苦しみ出して口から泡ぁ吹いたもんで」
「そんなもん演技に決まってんだろう! 見てくれに騙されるなって言っただろうが。奴には何度も逃げられてんだよ! もしかして、たらし込まれたんじゃないのか!」
「いや、でもあれは演技には……」
「なんだと?」
「それにですよ、死んじまったらそれこそ……、──ぅう……っ!」
パン、と乾いた音がし、何か重いものが地面に倒れる音がした。それきり、言い訳は聞こえなくなる。
「おい、こいつを始末しとけ」
冷酷な声に、この男にだけは絶対に捕まってはいけないと強く思った。自分を追っている者たちが、どれほど欲深い悪党なのかは知っている。
青年は、隠れている場所からそっと男たちのほうを覗いた。死んでいる男を除けば、追っ手は全部で五人。その中でとりわけ目を引くのが、銃を持った男だ。
仲介屋を生業とする者で、狩りをする者。仲介屋は一人で仕事をする時もあるが、あんなふうに誰かを雇って仕事をする時もある。
その仲介屋には、左の揉み上げから顎にかけて大きな傷があった。皮膚が引き攣っていて、その顔は歪んで見えた。だが、傷だけのせいではない。歪んでいるのは、中身もだ。それが、表情に表れている。
心臓が大きく跳ねていた。