汝、姦淫するなかれ。
強い抑圧の下で生きてきたレンは、かつて自分を誘拐した盗賊のカイルに強いあこがれを抱いていた。
野卑な身分でありながらも逞しく生きるカイルは自由の象徴に見えたのだ。
だが数年後、貴族然とした身なりで現れたカイルは「お前の人生を踏み躙るためにやってきた」と、憎しみをこめてレンの潔癖を穢す。
そんな時、レンを偏愛する錬金術師が、妖しげなものをレンにくれた。
それを使えば誰でも操り人形にできるという――。
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登場人物紹介
- レン・ノエル
12年前に盗賊団に誘拐された過去をもつ。敬虔なクリスチャンである継母に厳しく躾けられてきた。
- カイル・バイロン
レンを誘拐した盗賊団の一員だったが、貿易商として突然姿を現して…。
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敷石が整然と美しく並べられた川沿いの道。その明るい道をそぞろ歩きする人びとは、日曜礼拝を終えたところだ。男たちはトップハットにフロックコート姿、女たちはパラソルを手にしてヴィクトリアンスタイルのドレスをまとい、子供たちもそれぞれに着飾らされている。
上流中流階級に属する者は、こんな場面でも自分を売りこむ社交に余念がない。あちらこちらで歓談が繰り広げられていた。
そんな人びとを横目に見ながら、レンは川沿いに並ぶマロニエの木陰を渡るようにひとり歩く。花の季節、マロニエは赤い小花の群れを円錐形に咲かせ、甘くて少しなまめかしいような匂いを漂わせる。
それに川から水の匂いもする。レンは川へと、そしてさらに対岸へと視線を向けた。
あちら側のことを、こちら側の住人は「貧民街」と呼ぶ。所得の高低が川で分けられているのだ。砂埃に煙るあちら側を眺めながら歩いていると、左肩をぽんと叩かれた。赤毛の男が作り笑顔で話しかけてくる。
「ご機嫌よう、サー・ノエルのところの坊ちゃん」
金貸し業を営んでいるベイカーだ。
「家庭教師をなさってる教授が、坊ちゃんはたいそう優秀だと褒めておられましたよ。うちの息子と同じ学校に行かれてたら、いいライバルになっていたことでしょうな」
彼の息子はレンと同じ十四歳で、パブリックスクールの生徒だ。
本来ならレンも良家の子息がこぞって入る全寮制学校に入るはずだったのだが、大学教授を自宅に招いて個別教育を受けている。
「やっぱり、あれですかな。お父上から継いだ資質だけでなく、遠い血が混ざると優秀になるっていうやつですか。ゆくゆくは准男爵を継がれるわけですしな」
レンは黒々とした切れ長の目で、おもねるように胸の前で手を揉んでいる男を見上げた。すると男の顔に、怯む色と蔑む色とが同時に浮かぶ。
いまこのアッパークラスの人びとで満ちている通りで、こんなに黒い髪と目をしているのはレンだけだった。肌の色も黄桃のような色合いで、ひとりだけ違う。その違いを光の下で際立たせたくないから、こうして暗い場所を選んで歩いているのだ。
レンの母は、日本人だ。
母はレンが四歳のときに亡くなり、それから三年後に父は再婚した。
レンがパブリックスクールに入らなかった理由は、母の血と継母の考えによるものだった。