小説

ぼくの可愛い妊夫さま

著者
七川琴
イラスト
ミニワ
発売日
2016年9月20日
価格
700円(税抜)
太いお注射……してください。

気弱な37歳童貞の産婦人科医、弓削のもとに下腹部からの出血を訴える男がやってきた。屈強な大工の青年、岩本だ。 いくら検査しても原因がわからず途方に暮れるが、その症状からある可能性に辿りつく。「正常に機能する卵巣・子宮を持った男性」――MFUU。 そんなこととは思いもしない岩本は、産婦人科に回されたことを訝しみ、不安と緊張で苛立っていた。 岩本を安心させようと超音波検査を勧める弓削だったが…!?

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登場人物紹介

岩本太一(いわもとたいち)

住み込みで働く大工の青年。両親を震災で亡くし、医大へ通う妹に仕送りをしている。

弓削崇(ゆげたかし)

病院に勤める産婦人科医。内気な性格で、37歳にして未だに童貞。

試し読み

 僕はこの交差点が嫌いだ。明るい朝日の中、車のフロントガラスの向こうでパンプスを履いた女性や背広の男性が足早に通り過ぎて行く。目が合ってしまわないよう僕は車の中でそっと視線を逸らした。
 僕が産婦人科医として勤務している病院へ向かう途中のこの三叉路の信号は停車時間が長い。
加えて銀行や信用金庫の乱立するこの地区では脇道からの強引な割り込みもある。通勤の時間帯となればなおさらだ。
 割り込まれるのは苦手だ。道を譲ってハザードランプで礼を言われても、後ろの車からは煽られる。バックミラーに映る舌打ちする顔、譲ったせいで時間を取られ僕の前で赤になる信号。
その上、前の車がトラックだったりしようものなら信号が見えず、鈍臭く車体半分が横断歩道に乗り上げる事もしばしばだ。通行人は眉を顰めて僕の車の鼻先を避ける。割り込むのはもっと苦手だ。右折も苦手だ。タイミングが摑めないまま長蛇の列を作り、見かねて仏心を出した対向車に譲られて、ようやく曲がる始末だ。要は車の運転に向いていないのだ。いや、そもそも僕に向いている事などあっただろうか。だが、何より僕の心を憂欝にさせるのはこの交差点にあるカラオケ屋だ。
 大学に勤めていた頃の話だ。産婦人科の医局で定期的に行われる初期研修医の歓迎会、その二次会で生涯にたった一度だけカラオケに行った。僕は院を出て病院講師をしていた。下っ端ばかりで奢る人数が少ないのだと同僚に頼みこまれた。勧誘も兼ねているのだからたまには協力しろ、いつも飲み会をサボるのを見逃してやっているだろうが、と同期に凄まれて僕は黙った。飲み会サボり、実はその通りだった。
 僕は飲み会も苦手だ。一緒に盛り上がる、という不可思議で楽しげな現象に参加出来た事など生まれてこのかた一度もない。目の前で座が沸いている事は理解出来るがいつも蚊帳の外だ。
僕の、どうやら他人には素っ頓狂に聞こえるらしい受け答えで周りの人間が爆笑するのに折れそうな心を必死で見ないふりをして、ようやく浮かべた愛想笑いで応じる事が「一緒に盛り上がる」という現象にカテゴライズされるべきでないのはさすがの僕も知っていた。
 飲み会に参加するたび、皆が僕を置き去りにして笑うたび、僕の中の芯のようなものが少しずつ削れて細くなっていくような気がするのだ。もしもこの心象風景が現実だとすれば、その芯とやらはもはや削られきってなくなってしまっていなければおかしいのだが、これは僕の妄想に過ぎないので、相変わらずその幻の芯は剥き出しの神経組織のように削られるたびに酷く痛む。
 そんな筋金入りの飲み会嫌いの僕は浅はかにも「三回に一回程度なら反感を抱かれずに飲み会を欠席出来るはずだ、今回もいける」と高を括っていたのだが、残念ながらしっかりばれていた。金なら出す、見逃せ、などと言えばさらに同期が怒るであろう事は容易に予測出来た。
 レジデントや初期研修医達は大勢いる。カラオケに行った事はないが、要は歌いたい人間がマイクを握り歌を披露する場なのだろう。比較的若い男性の講師達は乗り気だ。きっと歌う事が好きなのだ。僕がマイクを握る事はあるまい。隅でウーロン茶でも飲んで手拍子をしていればいい。二、三時間で終わる。簡単な事だ。そんな甘い見通しで参加した事を、僕はすぐに後悔する羽目になった。

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